県名の由来
県名である「佐賀」は佐賀郡からとったものだが、古来は「佐嘉」の表記も使われており、明治維新の時に「佐賀」に統一された。「佐嘉郡」は、風土記の一つである肥前国風土記に記された、以下の記述に由来すると言われている。
これは、「日本武尊が御巡幸の時、楠樹の栄え繁る有様を見られ、この国は『栄の国』と呼ぶがよかろう、と申され、その後『栄の都』といい、改めて佐嘉郡と呼ぶようになった。」といった意味である。この文中に見られる楠(クスノキ)は、佐賀平野を中心として県内各地にあり、天然記念物指定の古い大楠が多数あるほか、佐賀県 マッサージ・エステ・アロママッサージの全国検索の県木にも指定されており縁が深い。
また、「佐嘉郡」の由来としては、もう1つ説があり、同じく肥前国風土記の以下の記述に由来する。
これは、「郡の西にある佐嘉川(現在の嘉瀬川にあたる)という川があり、「荒ぶる神」によって川が氾濫し多くの人々が亡くなっていた。これを鎮めるために、土蜘蛛(天皇に恭順しない土着の豪傑を意味する蔑称)の2人の賢女(さかしめ)が「下田の村の土で人形や馬形を作り、神を祀れば、鎮まるでしょう。」と言い、大荒田がその通りにしたところ、氾濫が鎮められた。大荒田はこの2人の賢女を讃え、この地域を「賢女の群(さかしめのこおり)」と呼ぶようにした。現在はこれが訛って佐嘉の郡(さかのこおり)と呼んでいる」といった意味になる。
中世・近世・近代
鎌倉時代から室町時代にかけて、百以上の一族が地頭として配置されていたと考えられている。その中でも規模が大きかったのが、九州千葉氏、高木氏、綾部氏、松浦氏、少弐氏、波多氏、後藤氏などであった。また、玄界灘沿岸は松浦党の影響力も強かった。戦国時代に入って、龍造寺氏が一気に勢力を伸ばし、肥前・肥後北部・筑後・筑前南部まで領地を広げた。龍造寺隆信の死後鍋島直茂が国政の代行を行うようになり、1607年には龍造寺氏の支配領をほぼすべて鍋島氏が継承することとなった。しかし、この前後に両一族の確執があり、鍋島藩の化け猫騒動の話を生み出したともいわれている。一方、唐津藩では波多氏が改易されて寺沢氏に換わり、唐津藩の初代藩主となった。
江戸時代は、佐賀藩そして支藩の蓮池藩、鹿島藩、小城藩の3藩、唐津藩が置かれたほか、現在の鳥栖市・基山町付近に対馬府中藩の田代領、唐津市浜玉町付近に同藩浜崎領があり、それぞれ対馬府中藩の飛地となっていた。また、現在の唐津市浜玉町海岸部や唐津市南東部などが幕府直轄領となっていた。
佐賀藩およびその支藩は鍋島氏とその庶流家、龍造寺氏の分家などによる支配が続き、政治的には比較的安定していた。しかし、長崎の警備費用がかさむなどして財政は当初から厳しく、享保の大飢饉や1828年のシーボルト台風による甚大な被害はそれに拍車をかけた。ただ、広大な有明海の干拓によって農地を拡大できるという地の利もあり、江戸時代初期から盛んに干拓が行われたことで、1840年代には約67万石と、200年前の2倍近くにまで石高を伸ばすことに成功している。また、19世紀中ごろに入って鍋島直正は財政の建て直しに努め、役人の削減、有田焼や茶・石炭といった特産品の保護育成に努めた。また、地理的に長崎に近いことや長崎警備を担当していた関係などから、入手が比較的容易であった海外の情報を手に入れ、反射炉や蒸気機関車模型といった先進的な科学技術の研究も進めた。
一方の唐津藩は寺沢氏が島原の乱の影響を受けて改易され、その後も領主が大久保氏、大給松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏とめまぐるしく変わり、政治はあまり安定していなかった。寺沢広高は松浦川の改修を行うなどしたが、その後水野忠任の代1771年には虹の松原一揆が起こるなどした。
佐賀藩は戊辰戦争以降、明治維新に尽力する人物を多く輩出した。維新期に活躍した6人に、これらの人材を輩出し名幕末期に活躍した鍋島直正を加えて、『佐賀の七賢人』と呼ばれている。それまで薩長土勢力中心であった明治新政府は、主に戊辰戦争以降に肥前勢力を仲間入りさせて『薩長土肥』となり新政府の主要官職を占めたが、大正以降は相対的に地位が低下していった。
県内情勢をみると、明治時代には杵島郡や東松浦郡などの炭鉱の近代化が進んで産業振興が行われ、鉄道の建設がそれを後押しした。しかし一方では、労働環境の問題なども生じるようになった。農村では近代化は顕著ではなかったが、1930年代の「佐賀段階」で技術が一新されたことにより、米は大幅な増産となり、人口も増加した。
その他
佐賀県 マッサージ・エステ・アロママッサージの全国検索は地域区分局にあたる郵便局が県内に存在しない唯一の都道府県である。県内全域をさす郵便番号84(上2桁)の地域区分局は、福岡県の久留米東郵便局(郵便事業久留米東支店)となっている。